ビジネスインサイツ54
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る体質づくりをねらいとして、人材育成や作業改善・設 備改善を継続的に実施していく体制と仕組みをつくるた めの全員参加の生産保全である。 森氏には、この広州工場で忘れられない経験がある。
のために』という考えが行動の基本にしっかり根付いて いました。しかし、中国ではべースが全く違うというこ とを実感しました」 という。森氏の模索の日々が始まった。
工場ストライキに衝撃
赴任した 2009 年当初はリーマンショックからちょうど 1年経ったころで、受注も順調に上向き、いよいよこれ からフル稼動に向けて動き始める、そんな時期だった。 森氏は「当時工場の人員は 350 名で、フル稼動に向けて 400 名〜 450 名に増員しようと採用を開始しました。人事 担当者が地方へ赴き、20 名、30 名と採用するのですが、 2010 年の春節あけ、田舎に帰った従業員がそのまま戻っ てこないということを経験しました。うわさには聞いて いましたが自分の工場で起こることにショックを受けま した」 そして、 2010 年 6 月 28 日忘れられない出来事が起こる、 ストライキが発生したのだ。5 月ごろから他社ではストラ イキが発生していたが、森氏は「うちの工場は普段から コミュニケーションが取れていましたし、 レクリエーショ ンなどの行事も組合と協力して行っているので、波及し ないと思っていました」と。しかし、ストライキは広州 工場にも波及してしまう。 この出来事で森氏は、コミュニケーションが出来てい る つもり だったことに気づいた。 「私とマネジャー層 との間では意思の疎通がうまくいっていましたが、マネ ジャー層と現場との間ではコミュニケーションのギャッ プが発生していることに気付きました」 (森氏) 。マネ ジャー層は工場の創業当初から 10 年近いキャリアのメン バーが多く、1970 年代生まれの中国がまだ家族主義的な 時代に育った世代だ。一方現場のメンバーは、1990 年代 生まれで個人主義が強い中で育ってきた。そこにはジェ ネレーションギャップも存在していたのだった。 森氏は「ストライキ再発防止のため、この工場を良く していくためにも、全員で取り組む一体感のある活動が 必要だと思いました」という。 「日本の工場ではベテラン 社員も多く、1 言えば 10 を理解してくれます。そして松 下幸之助の経営理念は常々教育されていますので、 『社会
ひとつの出会いが、 中国でのTPM活動を決意させた
森氏は 20 年ほど前、郡山工場にて TPM 活動に参画し た経験があった。当時生産技術グループ課長だった森氏 は「開発管理部会 部会長としてメンバーと一体となって TPM 活動を推進しました。マスタープランでは、3 年後 に優秀賞を獲得することを掲げましたが、見事に受賞す ることができて、メンバーの自信にも繋がりました」と いう。活動は第2段階へと進み、自走の自主保全活動に 繋がって、 今でも TPM 活動は続いており、 郡山工場のベー スになっているという。 この経験から、森氏には全員活動の推進に TPM が適 していることはわかっていた。しかし、中国の現時点で の実力を考えると、すぐに広州の工場で TPM 活動を実 施することは難しいと考えていた。でも何か全員参加の 活動が必要だ。ヒントを得るため森氏は、パナソニック の他の中国工場や他社の工場の見学を繰り返した。この ようななか、JMAC が主催した中国工場の視察が森氏の 大きなヒントとなった。 その視察先が山内精密電子の深セン工場である。森氏 はすぐに中国人の幹部と共に、山内精密電子で TPM 活 動を主導している副総経理 岩切 廣海を訪ねた。岩切はそ の後、JMAC で TPM コンサルタントとして活動するこ とになる。岩切は当時の山内精密電子の活動をこう振り 返る。 「深センの山内精密電子でもストライキがあって定 着率に課題がありました。なんとか若いワーカーさんの 定着率を上げようと思い、中国の事情に合わせた TPM 活動の試行錯誤を重ねました。特に現場のワーカーさん を巻き込むためには、目線は常に現場に合わせることが 大事です。現場が困っていることは何かをベースにした TPM 活動でないと長続きしません。中国のワーカーさん は知らないことを吸収しようという意欲は日本よりも強 いものがあり、この成長欲が鍵だと思いました」 工場見学を終え、その国や置かれている環境、現場の 悩みをベースにしながら TPM を柔軟にアレンジすれば、
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