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崖っぷちからの工場再生
~米国製造拠点、奇跡の黒字転換~

川崎重工業株式会社
代表取締役副社長 佐伯 武彦氏

 1981年8月、私は「工場閉鎖」の社命を受けて米国の二輪車生産拠点・リンカーン工場(ネブラスカ州)に赴任した。リンカーン工場は日本の二輪四輪メーカー初の米国工場であったが、操業以来6年間赤字を出し続けていた。  日本製品のイメージは「安かろう、悪かろう」の時代である。需要の伸びが、予測を大幅に下回るという逆風もあった。HY戦争と呼ばれるほどの、すさまじいホンダとヤマハの販売競争の中にあって、リンカーン工場の倉庫には在庫が山のように積みあがっていた。このままでは、販社の足を引っ張りかねない。「2年間で穏便に閉鎖せよ」――それが、本社の役員会議で下された決定だった。  確かに、採算性や能率について現地の管理職はまったく理解していなかった。品質も褒められたものではない。が、「なんとか立て直せるのではないか」と、着任直後から私は漠然とした思いを抱いていた。

99番目のリストラ候補

 赴任後、2カ月で200人いた管理職のうち70人を整理した。しかしワーカーはそうはいかない。余剰の人員16名を公共施設(シティホール)の清掃に当たらせたところ、マスコミで「模範的なすばらしい会社」と報道され、本社から大目玉をくったこともあった。

 赴任して半年たった翌2月。ワーカーのリストラに着手した。社歴の短い人から整理を始め、99番目の人に順番が回ってきたとき、名前を見て考え込んだ。30番目にリストラした人の奥さんだったのだ。「この人をクビにしたら家族の生活はどうなるのか?」「そんな甘いことでは経営の再建はむずかしい」。迷いに迷った後、「リストラは98番目でやめにしよう」と決断した。夫婦してクビを切ることなど、人間としてやるべきことではないと思ったのだ。その頃から徐徐に利益も出てきた。

 着任2年目を迎える頃、工場はまだ80名ほど余剰人員があった。倉庫は相変わらず在庫の山で仕事はない。しかし、これ以上、人を減らすと立て直しは不可能になる。「週3日稼動、賃金2割カット」で7カ月の急場を凌いだ。

 その年の8月、天恵とも言える出来事が起こった。ハーレーダビッドソンが経営難で、米国政府に救済申請を提出。700cc以上の輸入車に45%の関税が掛けられることとなったのだ。リンカーン工場は、息を吹き返した。米国向けの大型車の生産が始まり、順調に黒字を計上していった。

 その後、バギー車やロボットの生産も開始、小型エンジン工場を分工場として建設、また近年は車両工場も隣接し、2700人近くの雇用を生み出すようになった。リンカーン工場は海外工場の基本工場となったのである。

自分のため、会社のため

 リストラを遂行するなかでは、労働組合結成の運動もあった。組合結成の可否を決する選挙の3日前、全従業員を前にスピーチの壇上にのぼった私は、弁護士の用意した原稿を破り捨てた。

 「私はここで工場を始めたときアメリカという国は世界一の国、世界のリーダーたる国だと思っていた。しかし、この工場の品質・効率は、タイやインドネシアにも劣る」。そして、よい品質のモノを効率よくつくることが、従業員一人ひとりの幸福にもつながるのだということを私自身の言葉で訴えかけたのだ。スピーチが終わったとき、会場は万来の拍手に包まれた。品質や効率について理解し、経営の方針を納得してもらうことができたと思った。

 その後も、現場を見て回っては、毎日のように叱り飛ばした。「君のため、会社のため」だと言いながら。

 どこの国にあっても、人間同士わかりあえないことはない。根底はハートとハートの付きあいにあり、自分のためになると思えるからこそ、人とも会社とも付きあっていくことができるのだ。

 いま、リンカーン工場は、わが社の中でも抜群の効率と品質を維持している。そして、二輪車事業は、わが社のグローバル化のけん引役ともなったのである。

※本稿はJMAC発行の『Business Insights』Vol.7からの転載です。

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